1988年1月から9月までアパルトヘイト下の南アフリカの港町ダーバンに、当時の夫と1歳だった娘と3人で住んでいた。肌の色はだいたい同じ人間ばかりの日本で生まれ育った私にとって、肌の色での人種差別を目の当たりにした衝撃は大きかった。それを書き留めておきたいと思い、このブログを始めた。
黒人の仕事は多岐にわたる。工事現場、皿洗い、ホテルの掃除、ガードマン、ハウスメイド、ゴルフの打ちっぱなし練習場の球拾いなどなどで、白人社会は安い労働力の上に成り立っている。我が家にもメイドがいた。映画「風と共に去りぬ」に出てくるメイドを一回り細くしたような女性だった。名はスクイーズ。月曜から金曜と、土曜の昼まで来て、だいたい1か月5000円ぐらいだった。ある日、スクイーズは荷物持ちとしてスーパーに一緒に行った際、そこで知り合いのやはりメイドの黒人に会い、話し始めた。すると相手のメイドの女主人がすごい勢いで無駄口をたたくなという風なことを言い、𠮟りつけていた。こんなに怒るんだと思った。
通りには物乞いの家族がいて、一番小さな子供が使われる。親に指示された人のところに行き、小さな両手を皿のようにして出し、「マネー(お金)」と言う。小さいと哀れまれるので、実入りがいいそうだが、年齢は2歳ぐらいで、初めて覚える言葉が「マネー」だと聞いたこともある。親は少し離れたところで見守っている。同じ年齢ぐらいの娘がいる私は心が痛んだ。春をひさぐ仕事もあったようだが、価格は白人の10分の1という話だった。
危険な仕事もする。ゴルフの練習場に行ったことがある人はわかるだろうが、客は打席から球を打つ。その飛んで行ったあたりで、ときどき球拾いが始まる。その間、彼らは大声で叫ぶ。その合図で、私も含め、多くの客は打つのを止める。しかし、打ち続ける人もいるのだ。球拾いはヘルメットをかぶっただけの少女たちで、当たるとどれだけ危険かなど考えない人もいるのだ。さらに危険な仕事がある。サファリへ行くと、ジープで回る。運転手は白人だが、動物を見つけるのは視力が良い黒人。でも一緒にジープには乗らない。黒人はボンネットに座って、遠くに動物や鳥を見つけると、黙ってその方向を指さして、我々に教えてくれる。サファリパークではジープはゆっくり走るので、スピードは出ていないが、急ブレーキをかければ、ボンネットから簡単に落ちるだろう。また、フロントガラスには動物が襲ってきたときのためのライフルが置いてある。自分のすぐ背後にライフルとは気持ちの良いものではないだろう。アパルトヘイトとは、そういう環境でも仕事をするのだ。ただ、サファリパークは観光地なので、客は外から来た人ばかりだから、白人や私たちが黒人に話しかける雰囲気があったことだけは救われた。