1988年1月から9月までアパルトヘイト下の南アフリカの港町ダーバンに、当時の夫と1歳だった娘と3人で住んでいた。肌の色はだいたい同じ人間ばかりの日本で生まれ育った私にとって、肌の色での人種差別を目の当たりにした衝撃は大きかった。それを書き留めておきたいと思い、このブログを始めた。
1988年9月に完全帰国した。その後すぐ、日本でもアパルトヘイトを感じる出来事が2つあったので、紹介したい。
まずひとつめ。スマホやデジカメのない当時、カメラにフィルムを入れ、それを写真屋に現像に出し、写真にしてもらっていた。日本に帰ってから、アフリカで撮った写真を、娘のアルバムを作るために、すべて1枚ずつ焼き増しを頼んだ。すると、アフリカでは現像されてこなかった黒人の写真がすべて焼き増しされてきた。
なんということ!写真すら、黒人は現像してもらえないのだ。娘とメードを撮った一枚もできてきた。娘をかわいがってくれたメードにあげたら、さぞ喜んだだろうなと思う。きっと彼女は一枚も写真を持っていなかっただろうから。
もうひとつ。帰国してしばらくして、電話が鳴った。母が出て、英語だから誰からかはわからないが、あなたにだろうと言う。国際電話が恐ろしく高い時代、アフリカの友人には誰一人として電話番号は教えていない。電話に出ると都内の英会話スクールの勧誘だった。が、声は黒人特有のそれだった。どこの国の人かを何度聞いてもイギリスだと言う。ついに相手が、なぜそんなに何度も聞くのかと尋ねるので、実は先日までアフリカに住んでいて、たくさんの黒人と接していた。あなたの声も、彼らととてもよく似ているからと答えた。すると彼は実は黒人で、この英会話スクールでは、表で日本人と接しながら英語を教えるのは白人、黒人はこうして事務所で勧誘の電話をかける裏方をやらされていると言う。人の目につかぬところで働く彼の話を聞きながら、日本でもアパルトヘイトがあるのだと感じたのだった。
ちなみにずっと後に中国で知り合ったサムエルというイギリス人も黒人だった。何世代か前のおじいさんが奴隷として、奴隷船でガーナから連れてこられたと言っていた。サムエルと話しながら、この英会話スクールの黒人の話を思い出していた。